大学時代の課題レポートを読み返した件2 ハイエクの課題レポートから 全文紹介

令和4年(2022年)1月24日着手

ここ最近、シュンペーターについての課題レポートを取り上げましたね。その第1本目がこちらです。

大学時代のレポートを読み返した件 シュンペーターの課題レポートから – 悪徳オンラインギャンブルビジネス・ERAとDivineを撲滅する為に糾弾し、啓発も行います (antinovaeradivine.com)

その記事にも述べた通り、私は大学時代から思想的な人物にも関心を持っていました。特にいわゆる保守的な人物の授業は無いものかとアンテナを張っていました。そこでハイエクの授業があるのを知った時は嬉しかった事をよく覚えています。

このハイエクについてはこちらの記事を参照にして下さい。

Dr.ヒロさん風に『隷従への道』を述べます 「あなたが知らず知らずに奴隷になっていく過程」 – 悪徳オンラインギャンブルビジネス・ERAとDivineを撲滅する為に糾弾し、啓発も行います (antinovaeradivine.com)

ちなみに顔はこちらです。

興味津々な心持ちで授業に出席をして意欲的になった結果、課題レポートでも100点満点を取れました。

今回も読み易さの観点から誤字脱字をはじめ、当時の文面に修正を加えています。何が幼卒ブログでイキるなよですか(笑)

そんなこと言うなら、私のモノ以上に良質なブログと記事で沢山の人を唸らせる事は出来るんですか?って感じです(笑)

それでは本編に入ります。

「発見手続きとしての競争」の解説と意見

ハイエクの著作権との兼ね合いもあり授業中での教授と同様、特に注目する部分を取り上げて解説する事にする。

1の部分において第2・3段落では、競争はその前やその最中に結果が分からないからこそ効果を発揮し、事実を発見する。例えば、サッカーチームが相手チームについてあまりにも強い事など色々と知りすぎてしまうと、結果が目に見えてやる気を無くしてしまう。しかし、ある程度は未知の部分を残すと、そのチームは勝利への希望を見出す事が出来て、試合に臨める。第5・6段落において競争と科学の共通点は、個別の事例から実績を試す事は出来ず、予測が不可能な点である。一方、それらの相違点は前者が一時的な効力のある特定の事実を発見する手段であるのに対し、後者が唯一の特定の事実を発見する手段であり、その事柄は一般的で永続する点である。競争の具体例を挙げるとならば、夏にとても暑くなればアイスが売れ、様々な食品会社が競う。だが寒くなると、それらの会社は軒並みアイスが売れなくなる。科学の例で言うと、氷は溶かすと水になって更に温度を上げると蒸発して水蒸気になる。この事実は万国共通の常識である。

2の部分では特に次の一文に注目する。

私が述べている知識はむしろ、特定の状況を発見する能力からなる知識であり、それはこの知識の所有者が市場によって、どの様な種類の財やサービスがどれだけ緊急に必要とされているかという情報を与えられてさえいれば有効になるものである。

この一文は「社会における知識の利用」において登場した「時と場所の知識」を指し、これは競争する事で発見が出来て財やサービスの提供を市場で行う為に有効な情報である。なお彼はここで生まれる市場の秩序をカタラクシーと呼び、厳密な意味でのエコノミーと区別している。前者は重要度に応じて順番に満足させるとは限らず、発見の結果は予測できない。しかし、個々人の知識及び目的は様々で機会の選択肢が多い故に、効率良く個人的な目的を達成しやすくする。ハイエクはこの様な機会の改善を肯定している。後者は計画的制度の下、どれが重要で満たされるべきかが予め決まっていて、中央当局の知識のみ利用され人々は単一の目的に奉仕する。この様な対比は、『隷従への道』に登場した分権的計画と中央集権的な計画の比較と類似している。即ちカタラクシーは分権的計画で各人の自由を擁護する資本主義社会を、エコノミーは中央集権的な計画で独裁者とその組織の意志に人々が左右される共産主義社会を指すと言える。

3の部分では、特に第1段落の「価格を細かく調整する『見えざる手』」に着目する。これはアダム・スミスが『国富論』で用いた概念で、各個人の計画を相互調整する。これは非生産者以上に生産者が安価な良いモノを生産できるようにする。だが、その様にする方法を見つける事は難しい。

現実の農業を例に挙げよう。その職業に従事する人は地元で直接販売する事でスーパーより安く生産物を売る事が出来て、消費者の需要に応じて生産量を増減させる。天候不順が起きれば作物の質が悪く少ない上に高価になる。一方で逆に豊作で取れすぎると、価格が低下しすぎて農家は損失を被ってしまう。

以上が「見えざる手」の一例である。この点に関してアダム・スミスは、市場が財とサービスの組み合わせと分配をある程度は偶然に任せると理解している。そうする事で自然と最大の利益は得られるとハイエクは最後の段落で言っている。以上を見ると、ハイエクはアダム・スミスの言う「見えざる手」を重んじ、人間の理知を超えたものを認める事で、最大限の利益を引き出せると主張している事が判明する。

4の部分では、第2から第5段落を取り上げる。第4段落に「またわれわれは、不可避的な変化への調整を行うために、価格と所得のどのような変化が必要であるかということを統計的な情報から知ることは期待できない」とある。これは我々の理性では、経済等の客観的なデータを読み取るだけでは、今後の情勢の変化とそれへの具体的な対応は明確には分からないという事である。裏を返すと、人間の理知を超えた「見えざる手」によるメカニズムが働く事を示唆する。これは第二段落の文を借りて表現すると、「すべての経済的調整は予期せぬ変化によって必要とされる」という事である。この様な変化がある世界では、所得水準を維持する為に努力の方針を変える必要がある。その様な経済システムにおいては、命令による公正でない変化をもたらす事は出来ない。これは「変化に対し、比較的安定した状況下でただ所得流列を維持するだけ」の社会、つまり「何を人々が手に入れるか決まっている共産主義社会」の人々が経済的に貧困になった人達を保障する事が出来ず、新しい変化に対応する事が出来ない事を意味する。

5の部分では、最初の一文に注目する。

もし高度に発展した経済システムにおいてさえ競争は開発のプロセスとして重要であり、開発者たちが未使用の機会―発見された場合には他の人びとによっても使用される―を探しもとめるのであれば、このことは低開発社会においてよりいっそうあてはまることである。

ここでいう低開発社会とは、原料と人材の発見が重要な発展途上国の事であり、その国々では自由が開発をもたらすのである。伝統や慣習に余りに束縛されていると、発見が成されず先進的な少数者達に依存する。そのような少数の集団による計画や命令とは別の方法で、多数の人々が非人格的に強制する事をハイエクは懸念している。ここにおいても彼は、個々人の機会を試す事や私有財産の使用の自由を提案している。

自由の概念(法の支配)

ハイエクのいう自由とは、法の下で保障され自分で決定出来て、人と人との関係で成立する自由の事である。彼はそれを強制と対比させて説明している。強制とは他人の意志に従うことであり、ある意図をもってのみ働く。

故に、勝手に自然の落とし穴に落ちて不自由になるというような他者の意図がない不自由は論外で、相手が意図せぬ妨害をしてしまった場合には強制ではない。ここまではハイエク特有という訳ではない。だが彼は必需品の独占が真の強制であると言う。水を持っている人が一人だけで、喉が渇いている人はその人に従わざるを得ない状況がまさにそれである。

一方、自由は競争市場にあてはまる概念であり、自分の目的を目指して自分で決定でき、他人の目的や意志に従わないことを指す。具体例をあげるならばケーキが高価で買えなかった場合、別のスイーツを買うなどして他の方策を自分で選ぶことがこれにあてはまる。

なお、個別的・特定的な意味で何々をしてはいけない或いは何々しなさいという命令は、特定の時と場所の知識を使えない為自由ではない。例えば、「誰々さんは誰それさんと何々の契約をしなさい。」と政府が細かく指図する事になる。故に命令は強制であり、このような社会は共産主義社会である。この社会では中央当局が全て計画し、細かい変化に対応することが生じて負担が格段に重くなる。

また、中央が全部計画する事はその目的に人々がひたすら奉仕することを強制することになる。そのような統一性と表面的な類似性を求めた結果人々は低俗化し、独裁者が強い少数派を従えて決断、結局は最悪の人物によって独裁を行う体制ができあがる。一方、自由な社会は何々してはいけないという意味で一般的・抽象的な法に人々が従う。彼らは特定の時と場の知識を自由に使用でき、価値を与えるものである。そのような社会では対等な立場の人が、個々人による手で調整する選択の自由がある、その為、生活は良くなる・自由にやりたい事ができる等のパフォーマンスがよい。

しかし、ここで授業中に「一般的・抽象的な法」は本当に自由社会の必要十分条件なのかという問題が提起され、その具体例が2つ挙がっていた。1つは「ある属性にのみ当てはまる法」が認められると次々に特権が認められてしまうという懸念である。そのような法を作った後に色々と弊害や不満が噴出した際、それに応じて改良や撤廃を行えば良い、とハイエクは答えるであろう。何故なら、彼は『自由の条件 第二巻』の第十章の6で「これらの規則(個々人が守る規則)は決して目的意識的に発明されたものでなく、何世代にもわたる経験が今日あるような規則をつくるのに役立ってきた」と言って経験を重んじている為だ。

もう一つは、自殺命令の法のように一般的・抽象的な法だが明らかに自由を侵害する法が可決されることへの危惧である。だが、このような法が出てくる社会は『隷従への道』で登場した様な最底辺から構成されやすく極悪な人間が統治する社会、つまり共産主義社会で成り立つとしか考えられない。故に、自由を擁護して個人の教育と知識の水準を高め、見解や趣味を多彩にする環境を整えるならば問題はないと言える。

このような課題を通して、ハイエクは資本主義的な自由を擁護し、共産主義社会とそれに類似する社会を望む人々に警鐘を鳴らした人物であることが分かる。

後書き

こうしてブログ記事の為に、改めて自分のレポートを見直すとまあ読みづらい事、読みづらい事(苦笑)これで100点満点を取れていたという事は、余程自分のレポートの内容が良くて当時の教授の心に響いた印だと言えます。非常に感謝していますし、これを無駄にしてはいけないと改めて思いました。

シュンペーターのレポートもそうですが、読んでいて今の日本社会を取り巻く状況・ERAやDivineと言ったマルチ商法にも当てはまると直感的に気付いています。

今後は、時間のある時に上記のレポートを解説していきます。

読み辛いかもしれませんが、読んでいて面白いと思えるものを仕上げていく所存です。楽しみにしていて下さい。

以上で今回の記事を締め括ります。

何かありましたら、ご連絡下さい。

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